キリスト・イエスにあって一つであるとは 「あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」 (ガラテヤ3・28)
2023年 10月 1日私たちはキリスト教という宗教によって一つなのではなく、キリスト・イエスにあって一つなのです。
一つのキリストの体なる教会は、聖霊降臨日に誕生しました。
その日弟子たちの上に聖霊が降り、一同聖霊に満たされました。そして彼らは、あらゆる国から集まって来た人々が理解できる様々な言語で主の御名を崇めたのです。そこには、エルサレムにいたヘブライ語を話すユダヤ人だけではなく、あらゆる言語、文化圏に散らされていたユダヤ人たち、ディアスポラと呼ばれる人たちがおり、その日だけで3000人が主イエスを信じ、洗礼を受けたのです。この時「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合」いました。(使徒2・44~45)しかし、この時点ではまだユダヤ人だけの教会でしたが、その後、コルネリウスを始めとする異邦人が主イエスの救いに導かれ、「すべての人に聖霊が注がれる」という旧約の預言の通り、キリストの体なる教会は外に開かれて行きました。言葉、文化、民族の壁を越えていきました。
先日、岐阜長良川国際会議場で、第七回日本伝道会議が開かれました。主題は、「『おわり』から『はじめる』宣教協力」でした。「おわり」とは、キリスト・イエスにある救いの完成、ゴールという意味での「おわり」です。
しかし、その完成に向かうプロセスにある教会は様々な問題に直面しました。先ほどの異邦人コルネリウスの回心後、教会の中で、異邦人に違和感を抱く人たちがおり「主イエスの救いにあずかった異邦人も、ユダヤ人の習慣にならうべきだ」と主張する人がいました。
そこでエルサレムの教会は、聖霊の導きの中で、誰もが主イエスを信じる信仰によって救われることを改めて確認したのです。それでも新しい人、多様な言語、文化、民族が教会に加えられていけばいくほど、また新たな問題に直面しました。
なぜでしょう。それは自分と異なる習慣、文化を持つ人と共にあることを心地よくないと違和感を抱いたからです。そこに偏見が生まれ、劣等感や優越感を抱き、ストレスを感じるようになったからです。
しかし、このことは、必ずしも民族や文化の違いだけで起こることではありません。人は、異質なものが入り込もうとすると、そこに不快、違和感を覚え、恐れを抱くので、気の合う人と一緒にいる方が楽に感じてしまうのです。
教会の在り方、スタイルについてもそうです。もし自分の好みでない礼拝スタイル、好まない交わりのスタイルだと感じると、そこに不快感、違和感を抱くのです。
ところが聖霊は、そのような私たちを苦手な人、自分と異なる人、これまで交わることがなかった人と出会わせ、その人を愛するように、交わるように導かれるのです。違和感を抱くこと自体が悪いことだと思うよりも、そのような自分を素直に認め、聖霊の助けによって、もっと相手を理解し、尊重し合い、愛し合う、絶好の機会、愛の領域を広げるチャンスをもらっていると受け止めるならば、キリストの体なる教会はさらに主の御愛に満たされ続け広がっていくでしょう。それが「おわり」完成、ゴールに向かう教会の本来の姿なのです。
なぜなら主イエスこそが、最も異質なものを愛し、受け入れたお方だからです。
神御自身でありながら、神であることに固執せず、真の人となってくださり、すべての人に仕える者となられたお方だからです。異質な者たちの中に飛び込んで来てくださったのです。どれほど、拒絶されても、誤解されても、私たちを愛し、赦し、御自身の愛で満たし、「愛し合い、赦し合い、尊重し合う者となるように」と、聖霊を通してチャレンジを与えておられるのです。