平和を造る人は幸いである (マタイ5章9節)
2024年 1月 1日平和を愛し、求める人は大勢いるでしょう。しかしその多くが利己的、打算的で自分と自分が好む者の平和だけを求めてしまうのです。自分さえよければ、自分たちだけが平和であればよいという利己主義的な国家、あるいは人々によって抑圧され、自分の存在価値を見出せず、傷つき、痛み、悲しみ、愛されることがわからず生きている人が世界に大勢います。
主イエスの平和は、自分たちの平和を確保するために、平和を脅かす存在を排除して得ようとする平和ではありません。主イエスが、利己的で自己中心的な人間が敵意を向け合うその間に入り、その敵意を、そして双方が持っている醜い罪を全部ご自身が受け取られ、十字架で滅ぼされ成し遂げられた、その結果得られる平和です。この平和を造る者が「神の子と呼ばれる」のは、主イエス御自身のように平和を造る者として生きることができるからです。
しかし私たちは、自分を取り巻く様々な環境の変化、出来事によって平和を奪われてしまうと感じることがあります。イエス様も時に、不条理な現実をご覧になり、憤り、涙されたのですから、私たちも「なぜこんなことが起こるのか」と時に憤り、大いに涙してよいのです。しかし、その時、神の愛と平和はどこにあるのかと探しまわるならば、神の平和は奪われてしまいます。
主イエスと父なる神との関係は、この地上にあって、何があっても揺らいだり、平和が奪われることはありませんでした。主は、憤り、涙しても、平和を保ち、平和を造り続けられたのです。主イエスが与える平和は、自分の置かれた現状に左右され奪われるものではなく、神と人、人と人とをつなぐ平和であることを忘れてはなりません。
シンデレラのストーリをご存じでしょう。お母さんの死、父親の再婚、そして父の死後、灰かぶりという意味のシンデレラという屈辱的な名をつけられ、継母に使用人のようにこき使われ、酷い仕打ちを受け、たくさん涙します。この物語は、最後に、その国の王子とシンデレラが結ばれるので幸せな気持ちになるのですが、この物語の最後のところで、さんざんひどい目に合わせ、苦しめた継母との別れ際にシンデレラが発した一言に本当の平和、平安を知ることができます。彼女は継母にこう言ったのです。「私はあなたを赦します」彼女はこの後、王子と結ばれ、他の人との間にも平和を造る人になりましたが、そこには継母への赦す心があったからです。
私たちは、キリストに結ばれ神の子として、キリストの花嫁として、あらゆる敵意の壁を壊し、愛と赦しの恵みの中に生かされる者です。赦しの愛に生きるとき、そこに平和が生まれます。平和を造る者となることができます。まずは、身近な関係から平和を造る者となりましょう。夫婦の間に、親子の間に、教会の愛する兄弟姉妹同士の間に平和を造る者となりましょう。そして、それぞれが遣わされている地域で、職場で、学び舎で、あなた自身が平和を造る人にならせていただこうではありませんか。