愛が私たちの内にまっとうされているので
2024年 5月 1日「このように、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に私たちは確信を持つことができます。」 (ヨハネの手紙一4・17)
主の御愛の内にあり続けるという確信
神様の愛が私たちの内に全うされているので、私たちには御愛の内にあり続けているという確信があります。主イエスの十字架による罪の贖いを信じ、神の子とされ、聖霊が心に宿ってくださり、裁きの日まで、永遠の滅びを宣告されることはなく、永遠の主の御愛の内にあり続けることができるという確信です。
恐れから解放されている確信
そして恐れから解放されているという確信があります。「愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(18)神の愛だけが私たちの内から恐れを締め出すことができます。天地創造の初め、神のかたちに造られた人間が、神の言葉に聞き従わず、悪魔の言葉を聞き入れ、神との関係が壊れたため、神は自分たちを裁く恐ろしい神と思えたのです。ゆえにアダムとエバは自分たちの身を隠すしかありませんでした。罪の中にとどまり続ける者にとっては、神は裁く神で、恐ろしい神であり、その結果、他の人間を恐れ、身を隠そうとするのです。
ペンテコステ以前のペトロは、自分の力でそれを成し遂げようとしたので、イエスに最後まで従い切ることはできませんでした。イエスが捕らえられたとき、あなたもイエスと一緒だったと言われ、ペトロの心は恐れに支配され、知らないと言ってしまったのです。主の復活後、イエスに従っていた婦人たちに、主がよみがえられたと告げても、半信半疑のまま、ユダヤ人を恐れ、戸にカギをかけ家に隠れていました。しかしペトロの心が聖霊で満たされたとき、彼の心は神の愛で満たされたのです。彼の心の恐れは締め出されました。もうユダヤ人は怖くありません。死も恐れません。聖霊が一緒にいてくださるからです。
自分の罪がすべて主の十字架で処罰されたと信じ、罪赦され神の子とされ、聖霊に満たされた者は、自分の内で愛が全うされていると信じることができるので、もう罪に裁かれると恐れることはありません。神に愛され、愛がその人の内に全うされているので、赦された者であると確信し、恐れから解放されるのです。
目に見えるきょうだいを愛することができるという確信
最後に、愛が私たちの内で全うされているので、目に見えるきょうだいを愛することができるという確信があります。「『神を愛している』と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。」(20)聖霊が心に住み、神の愛が私たちの内で全うされているので、私たちは神を愛することができ、きょうだいも愛することができるのです。ねばならないではなく、喜んで愛することができるのです。愛が私たちの内に全うされているからです。神を肉眼で見ることはできません。しかし、聖霊が降り誕生したキリストの体なる教会に属する私たち一人一人が愛の交わりを持つことを通して、互いに励まし合い、慰め合い、支え合い、仕え合い、愛を実践していくとき、人々はそこに神を見、神の愛を知ることができるのです。この愛を益々、他の人と分かち合ってまいりましょう。