信じた者たちは皆一つになって(使徒言行録2章40節~47節)
2020年 2月 15日信じた者たちは
主イエスの十字架、復活、昇天後、弟子たちの群れ総勢120名は心を合わせてひたすら祈りました。すると聖霊が降り聖霊に満たされた彼らは、あらゆる文化、言語で偉大な神の業を語ったのです。そして「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」のです。
ペトロは、ヨエル書や詩編の御言葉を引用しながら、主イエスが真のメシアであることを立証しました。主を信頼する者が御言葉を語るとき、信じる者が次々に起こされました。
「ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、…彼らを励ました。」(40)。ペトロは、どんな証しを語り、人々を励ましたのでしょう。
湖の上を歩いたのに、イエス様から目を離したら溺れそうになったこと。主イエスが十字架の苦難と復活について語られたとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエス様をいさめてしまい、「サタン、引き下がれ、あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と叱られたこと。
主イエスが十字架の道を進もうとされるとき、「主よ、ご一緒ならば、牢であろうと死であろうと覚悟しております」と言いながら、いざイエス様が捉えられ連行されると怖くなり、イエス様を知らないと三度否んでしまったこと等、如何に自分勝手で、傲慢で、自信過剰で、脆く、弱い存在で、多くの失敗をし、最後にはイエス様を裏切ってしまったことを語りながら、しかしそんなわたしのことを諦めず愛し続け、心の傷や痛みを癒し、聖霊の炎で罪も汚れも焼き尽くしてくださったこと等を大胆に証したのでしょう。
御言葉には主イエスを証しする力があります。同時に、イエス様がしてくださったことを証しするとき、神の偉大な力が現わされ、それを聞いた人々は、イエス様を信じる者となります。
皆一つとなって
そして、信じる者は皆一つとなってイエス様を証しする者となります。「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3・27~28)
昨年のラグビーのワールドカップで、異なった民族、背景を持ったメンバーが日本チームとして一つとなり、それぞれが自分を犠牲にしながらボールをつなぎゴールを目指した試合に日本中が熱くなりました。自分のためにではなく、チームのために自分を犠牲にして戦う姿に皆が感動しました。自分を犠牲にし、他者を生かそうとする、それはまさしくキリストの姿であり、キリストの体なる教会の姿です。皆が一つとなる。それは、キリストの犠牲の愛によって、赦された者同士がキリストを起、主の偉大な愛の業を証しし合い、自分を犠牲にしていくとき、キリストにあるワンチームとなるのです。
初代教会において、キリストの愛に満たされた彼らはワンチームとなっていたので、すべての者を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合ったのです。だから皆が十分に満たされていました。
「そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」のです「ひたすら」とは、一途である。一筋であることです。思いを一つにするということです彼らは皆、キリスト・イエスにあって一つ、ワンチームとなるために、ひたすらイエス様についての教えを守り、愛によって交わり、キリストの十字架の苦難を覚え、聖餐にあずかり、熱心に祈り、神を賛美し、また喜びと真心を持って一緒に食事しました。するとそれを見ていた民衆全体から好意を寄せられたのです。そして、「主は救われる人々を日々仲間に加えてくださった」のです。(47)
それは今も変わりません。わたしたちもキリスト・イエスにあって皆一つ、ワンチームとなって歩んで参りましょう。