魂に癒しを与える主
2020年 5月 1日飲んでも渇かない命の水への招き
「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。」(イザヤ55・1)
水は命の源です。主なる神は、預言者の口を通して、命の源である水を求めよと語りました。更に「金(かね)のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずにぶどう酒と乳を買え。」とあります。金がないのにどうして買って食べることができるのでしょうか。
主イエスは、「渇いている人は誰でも、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招き、渇きをもたらす原因であるわたしたちの罪の代価を完全に支払ってくださり、命の水である聖霊様をわたしたちに与えることができるからです。
生ける御言葉への招き
「耳を傾け、私のところに来るがよい。聞け。そうすればあなたがたの魂は生きる。」(55・3前半)
聞くというのは、聞き流すのではなく、応答して従うことです。誰かにメールを送って返信がないと心配になりますが、わたしたちを愛する主は、聞いた言葉をしっかりと受け止め応答してほしいのです。どう応答するのでしょうか。とてもシンプルです。主が来なさいと言っているのですから、主の御許に行けば良いのです。
マタイ福音書11章28節以下も先ほど拝読しましたが、主イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と人々を招かれました。霊的に渇ききっていた魂が生きるようになるためです。そして、「私に学びなさい」と言われました。主の御許に来て留まるために、わたしたちは日々御言葉に聞き従うことによって魂は生きるのです。
主の臨在への招き
そして、主は御自身のご臨在の内へと私たちを招きます。「主を尋ね求めよ、見いだすことができるうちに。主に呼びかけよ、近くにおられるうちに。」(55・6)
主はどんなときもわたしたちと共におられ、一時も離れることはないのです。けれども、突然襲ってくる苦難の中でパニックを起こし、わたしたちは主を見失ってしまうことがあります。
主が十字架で死んで葬られたとき、主に従ってきた弟子たち、婦人たちは完全に主を見失いました。その内の一人であるマリアが主の葬られた墓に香油を塗りにやってくると主の遺体が見つからないのです。マリアは誰かが主の遺体をどこかに取り去ってしまったとパニックになります。
後ろに復活の主イエスが立っておられても、彼女は主だとは分からなかったのです。復活の主イエスが「マリア」と言われると、主だと分かり、「ラボニ、先生」と言って喜びに満たされるのです。すぐ側におられたイエス様は、マリアによって見出されました。
わたしたちは主を見失いそうになることがありますが、主イエスを信じた者の内に、聖霊様を通して共におられる主は、わたしたちが主がいつもご一緒であることに気付き親しく交わることを望んでおられるのです。そして、私たちの魂に豊かな癒しをもたらしてくださるのです。