主の日を待ち望む者が知るべきこと (ペトロの手紙二3章3~13節)
2021年 9月 1日
主の日(将来)から今を見つめ直す
第一に私たちが知っておくべきことは、将来の主の日から今を捉える視点です。
「まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、」(3)
「終わりの日」とは、複数形で書かれているので終わりの日々です。真の神が真の人となって来られた日、クリスマス以来、今は恵みの時、救いの時。その日々を聖書は終わりの日と呼びます。主イエスの救いにあずかり、主に結ばれた者にとって、終わりの日は、最後の時ではなく、新しい始まりの時です。そして、主イエスが再び来られる(主の日)、この終わりの日と呼ばれる日が完成します。
その日が来るまでの間に、神の前に忠実に歩んでいる者を嘲り、欲望のままに振舞う者が「こう言います。『主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りについてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか』」と。
私たちは多くの場合、過去を、そして今を見ながら、将来を見ます。例えば、コロナ感染も、2週間前の私たちの行動が2週間後に反映されると言われます。そのような視点も確かに大切で、聖書でもそのような視点があります。
しかし聖書は、もう一つ大切な神様の視点を私たちに教えています。それは、将来から今を捉える視点です。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
(ローマ5・8)
私たちが罪赦され、神の子とされ、新しく造り変えられて生きる将来から、神は罪の中にある者たちを捉えているのです。
十字架へと向かわれた主イエスの傍らで、イエス様のことを三度も知らないと否んだペトロをイエス様は、将来から捉えていたので、ペトロにあらかじめこう告げていたのです。あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったとき、兄弟たちを力づけてあげなさい。聖霊に満たされた後のペトロは、どこまでも主を愛し、殉教の死に至るまで忠実な僕として歩み続けました。イエス様は、将来からペトロの今を捉える視点を持っていました。これが神様の愛の視点です。
主は、今、悲しみ痛んでいる私たち、欠け多く失敗ばかりする私たち、過ちを犯す私たちのことを知っています。その私たちが、整えられ、変えられ、完成され、御国の世継ぎとされていく将来から今の私たちを捉える視点を持っておられるのです。主のご再臨の日を待ち望む者は、来るべき主の日(将来)から今を見つめ直す視点を持つべきであるということを知る必要があります。
神様のご忍耐
主の日を待ち望む者が知るべき第二のことは、神様のご忍耐についてです。
「愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3・8~9)
ペトロは二つのことを知っておくように語っています。一つは、神様にとっては、一日は千年のようで、千年は一日のようだということです。そしてもう一つは、神様のご忍耐です。
永遠の神の視点で見るならば、私たちの生涯はほんの一瞬です。私たちがこの世にあって、どれほど多くの知識を得ても、経験を積み重ねても、永遠の神が見ておられる時、永遠性を、私たちの時間の尺度で計ることなど到底できないのです。しかし神様は、人の罪深さ、愚かさ、鈍さにじっと忍耐しながら、一人も滅びないで、すべての人が悔い改め、神に立ち帰るのを待っておられるのです。神は忍耐をもってその御愛を私たちに向けておられるのです。私たちが主の日の到来を遅いと思うのは、主の御愛、忍耐の故なのです。けれども、いつまでも待ち続けるということではありません。主の日は、必ず来るのです。主は約束を果たされるのです。主の日を待ち望む者は、主のご再臨は遅れているのではない、神様が、その御愛の故に、ご忍耐しておられることを知っておくべきなのです。