あなたには何が見えるか (エレミヤ書24章1~10節)
2021年 11月 1日主なる神は預言者エレミヤに、あるものを示されました。
「一つの籠には初なりのような上等のいちじくがあり、もう一つの籠には食べることもできない傷んだいちじくがあった。主は私に言われた。『エレミヤよ、何が見えるか。』私は言った。『いちじくです。良いいちじくは上等ですが、悪いほうは痛んでいて食べられません。』」(2~3)
この2つの籠のいちじくは、それぞれ2種類の人たちを指し示していました。
「『イスラエルの神、主はこう言われる。これらの良いいちじくのように、私はこの場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものと見なす。』」(5)カルデアとは、バビロニア地方のことですが、主なる神は、バビロンに捕囚として連行されていった人々を良いいちじくにたとえ、良いものと見なしました。
「しかし―主はこう言われる―、私はユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者、この地に残された者、またエジプトの地に住んでいる者を、この食べることもできない悪いいちじくのようにする。」(8)悪いいちじくとは、捕囚民となって連行されず、エルサレムに残っている人、またエジプトの地に移り住んだ人を指していました。
なぜでしょう。神は人の心を見ておられるということです。5節に「良いものと見なす」とあります。あくまでも良いものと見なされているに過ぎないのです。捕囚民として連行された人も、エルサレムに残っている者も、エジプトに移り住んだ人も、主なる神から離れ、偶像崇拝に陥り罪を犯した点では皆同じです。彼らの外側だけを見るならば、捕囚民の方がみすぼらしく、哀れに見え、エルサレムに残った人や、エジプトに移り住んだ人の方が良く見えたでしょう。
にもかかわらず捕囚の民を神は「良いものと見なし」ました。それは、この人たちは、これまで犯してきた罪、過ちを心から主の前に悔い改める砕かれた心を持っていたからです。主はその彼らの心を見ておられました。「私は彼らに目を注いで恵みを与え、この地に帰らせ、彼らを建てて倒さず、植えて引き抜くことはない。私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。」(6~7)
心を尽くして神に立ち帰ろうとする者、心を砕かれた者を神は見ておられ、その人たちに恵みを注ぎ、彼らの神となられるのです。
これに対して、悪いいちじくが指し示す人たちの問題は何でしょうか。エルサレムに残った人たちは、「バビロンに連行された人は神に見放された。自分たちには、主の神殿がある」(その神殿も11年後には破壊されてしまいます)と考えました。一方、エジプトに移り住んだ人たちは、エジプトに助けを求め、移住した人たちでした。苦しみを避けうまくやり過ごしていました。
これらの人たちは、自分たちは大丈夫だ、何とか切り抜けた。うまくいったと思い込み、自分たちのこれまでの歩みを悔い改め、神に立ち帰ろうとせず、その心は頑ななままでした。その彼らは、神の目に悪いいちじくと見なされたのです。
神は、苦難を逃れること、自分さえ良ければと考えた人たちのことを、悪い腐ったいちじくと見なしましたが、心を砕かれ、神に立ち帰ろうとする人々を、良いいちじくと見なし、恵みを注がれ、もう一度起き上がり倒れることのないようにしてくださいました。また、引き抜かれることのないようにしっかり植えられた植物のように豊かな花を咲かせ、多くの実をもたらす者としてくださるのです。
いずれにしても大切なことは、ここまで何とか持ち堪えて来られたとしても、「それでよかった」ということではありません。また、仮にどんな理不尽な思いをしてきたとしても、これまでの歩みを振り返り、悔い改め、心砕かれ、神を第一とする生き方を求めるならば、神はその人の砕かれた心を見ておられ、恵みを注いでくださいます。
主はエレミヤに「何が見えるか」と問われましたが、それは、私たちへの問いかけでもあります。神の前に、心を砕かれていない、頑なな心の自分の姿が見えていないでしょうか。そして、そのような私たちのために、砕かれてくださった主イエスのお姿を見ているでしょうか。主は今日も私たちのために心を砕いてくださっています。