幸いな者、弱い者を思いやる人は
2022年 1月 1日ダビデは苦しみ、悲しみ、病の中にある人を思いやる人でした。ところが、彼自身が重い病に伏している時、自分のことを心から思いやってくれる人がいませんでした。信頼していた者にさえ裏切られるという経験をしました。弱さの中にあるダビデを心から思いやる幸いな者がいなかったのです(詩編41・6~10参照)。
しかし、そんな災いと思えるとき、主なる神はダビデを見捨てず救い出してくださいました。だから、「幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。」、更に4−1−1節では「主は彼が病の床にあっても支えてくださる。その人が病気のとき あなたはその床を新たに変えてくださる。」と告白しているのです。
更に5節で「主よ、私を憐れみ、魂を癒やしてください。私はあなたに罪を犯しました。」と自分自身の罪の告白もしています。ダビデは、弱い者を思いやる人でしたが、一方で間違い過ちも沢山犯しました。主が病の床で支えてくださったとき、彼は自分の過ち、心の闇を主の光に照らされ、悔い改め、彼の魂は新しくされました。弱い者を思いやることができるのは、弱さ、病、そして、罪の悲惨さを知っているからです。そして、その人の「災いの日に、主はその人を救い出してくださる。」というのです。
なぜでしょうか。それは神御自身が、弱い私たち人間そのものになってくださり、全く無防備な赤子として産声を上げ、弱い者として誕生してくださったお方、主イエスだからです。罪は犯されませんでしたが、苦しみ、痛み、貧しさ、そして、人々から侮辱を受け、親しい友からの裏切りも体験されたお方だからです。そして私たちの罪も病もすべて負って、十字架で罪の代価を支払ってくださり、死者の中から復活され今も生きておられます。ですから聖霊様を通して、私たちと共にあり、一緒に痛み、慰め、魂を癒し、災いの日から救い出すことがおできになるのです。そして、そのお方が教会の頭であり、教会はキリストの体です。使徒パウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」とコリントの信徒への手紙一12・26~27で述べています。私たちは苦しみも喜びも共にする共同体です。皆がそれぞれ弱さを覚えることがあり、誰かに思いやってもらいたい。そのような時もあるでしょうし、誰かを思いやり支えるときもあります。キリストの体なる教会の中にあるお互いは、弱い者を思いやる友に囲まれています。教会の頭なるキリストは私たちの災いの日、共にあって、救い出し、癒し、魂を新たにしてくださいます。
しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、ここで言われている「弱い者」とは、教会の内側にある人だけではないということです。これまでコロナ禍の中、つい自分の生活、自分の家族や身近なことに思いが向けられていなかったでしょうか。世界には、本当に生活が困窮している貧しい人、肉体的、精神的に追い詰められている人たちが大勢います。この日本にも、住む家がなく、食べるものが不足している人が大勢います。そのような弱さを覚えている人たちに、もっと思いを向けていく一年でもありたいのです。
教会の使命は何ですかと問われると、どうしても、福音宣教ですと答えてしまいがちです。確かにそうです。しかし、福音を伝えるというのは、福音によって生かされている者が、主イエスのように生きることによって伝わります。主イエスの福音、愛は、弱さの中にある人を思いやり、仕えることを通して伝わります。
キリストの愛が多くの人に伝わるために、「幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。」との御言葉をしっかり心に刻みましょう。