この宝を土の器に納めている私たち
2022年 3月 1日「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」
(コリント二、4・7)
「この宝を土の器に納めている」とありますが、この宝とは何でしょうか?
パウロは主イエス・キリストに出会う以前、有形無形の誇るべき宝を持っていました。それは、ユダヤ人としての誇り、家柄、律法学者としての知恵、知識などで、誇るべき宝が沢山ありました。ところが、主イエスに出会い、主から特別な宝を与えられたとき、これまで宝だと思っていたものはすべて塵あくたに思えたのです。
「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。」(4・6)かつてのパウロは、やがて消え去るものに縛られ、暗闇の中にあったのですが、その暗い心を照らす光、神の栄光を悟るキリストの光という宝を与えられたのです。
それではなぜパウロは、「私たちは、この宝を土の器に納めています」と言うのでしょうか。
彼が生きた今から約2000年前、明かりを灯すための容器として、土の器のランプがありました。本当に粗末なもので見栄えも悪く、穴が空いているものもありました。パウロはそのみすぼらしい土の器と自分を重ねているのです。
パウロというと、すごくパワフルなクリスチャンというイメージを持ってしまうかもしれません。しかし、実際のパウロは、風貌はパッとしなかったし、決して雄弁でもなかったのです。また宣教旅行を通して、イエスの救いにあずかる人が起こされる一方で、数々の苦難を通り、パウロの体はボロボロで正に穴が空いた土の器のようでした。しかし、どんなにみすぼらしく、傷つき痛み、穴が空いている土の器のようであっても、今はキリストの光を与えられ、輝きを放つ器であると言っているのです。
私たちの内にあるキリストの光、それは、私たちが主を信じたときから内に住まわってくださる聖霊様を通して放たれる光です。
だからパウロは8節以下でこのように述べているのです。「四方から苦難を受けても行き詰ら」ない。四方から苦難を受けたら、逃げ場がないはずなのに、どうして、行き詰らないのかと思ってしまいます。かつて救世軍の山室軍平先生が次のように述べています。「神を知らない人は、東西南北の四つの方角しか持たない。そのために前後左右から苦難が押し寄せて来ると、身の置き所がなくなって往生する。しかし、土の器の中にこの宝を持っている人は、東西南北の他に上という五つ目の方角がある。それで前後左右から悩みが襲って来ても、まだ上に向かって、神に逃れることができる」
脆くて弱い器でも、私たちの内におられる聖霊様を通して御国と直結しています。だから四方からの苦難に対しても、行き詰らないのです。
次に「途方に暮れても失望しません。」途方に暮れる。パニック状態、絶望的な状態でもうだめだと思うときも、聖霊様を通して放たれるキリストの光が、沈んだ心を照ら出してくださるからです。
「迫害されても見捨てられず」とは、人に迫害されても、神に見捨てられることはありません。神はその人の味方だからです。
更に「倒されても滅びません。」ここは、英語の聖書ですと、ノックダウンされても、ノックアウトされないとなっています。ボクシングというスポーツでは、試合の中で、ノックダウンされることがある。ワン、ツウー、スリーとレフリーがカウントする。でも、テンと言われる前に立ち上がり、また試合が始まる。もしテンまで数える間に起き上らなければ、ノックアウトで、敗北となります。
弱く、脆い土の器である私たちは、何度もノックダウンしても、ノックアウトされることはない。キリストの光という宝を、決して失うことのない聖霊様を内に納めているからです。
みすぼらしくてボロボロの土の器であっても、自分の内にあるキリストの光、聖霊様を通して、神の絶大な力が働いているから落胆せず、誰かの救いのために、その使命を果たし続けました。それがパウロでした。
私たちも脆く簡単に壊れてしまうような土の器です。実際、壊れるし、打ちのめされるし、倒れるし、途方に暮れることがあります。しかし、罪の中に生きていた古い自分は死んで、キリストが我内に生きておられる器、キリストの光を放つ器です。
キリストの光をもっと輝かすために、聖霊様の助けによって祈りましょう。苦しみ痛んでいる世界中の人に、キリストの光が届けられるように祈りましょう。