しかし、あなたは恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神
2022年 9月 16日ネヘミヤ記9章には、神が成してくださった御業の告白と、その神を忘れたイスラエルの民の罪の告白が繰り返されています。
神が成してくださった
偉大な御業の告白
主なる神は、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を、指導者としてモーセを立て、解放されます。そして荒れ野に出た時、彼らの目の前に立ちはだかる紅海を真っ二つに裂き、渇いた地を歩かせ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれ、神の戒め、律法を授けられました。彼らが飢えたとき天からパンを降らせ、渇く時には岩から水を湧き出させました。この神がしてくださった偉大な業を告白し神をほめたたえています。
そして、その後、不従順に陥ったイスラエルの民でしたが、40年間の旅路を守り導いてくださり、約束の地へと導かれた神の御業が告白されています。
主なる神は、如何なる時も彼らと共におられ、彼らを守り導き、養われました。そのことを思い起し、神の偉大な業を賛美しました。
今、あなたは主の前に何を告白するでしょうか。差し迫った現実の中での苦しみを告白し祈ることがあります。勿論、神はその祈り、告白を聞いてくださり、必要に応じて救い出してくださいます。
けれども、苦難の中でも、神がこれまでに成してくださった大いなる御業を思い起こして告白し、賛美するとき、神は、今直面している苦難に対しても必ず、大いなる御業を成してくださるという確信、そして更に主を信頼して歩む力を与えてくださいます。
傲慢、高ぶりという罪の告白
しかし、この9章には、神が成してくださった偉大な業を忘れ、高ぶり、過ちを犯したという罪の告白が繰り返し告白されています。
9章全体を読み進めていくと、心が傲慢になり、かたくなになり、神の戒めに聞き従うことを拒否し、神の驚くべき御業を忘れることは、一度や二度ではなく、いい加減に見捨てられてもおかしくない、あきれるほどでした。
しかし、17節の後半にあるように、「恵みに満ち、憐れみ深い赦しの神」は、「怒るに遅く、慈しみに富み 彼らを見捨てることはなさいませんでした。」
神は、御自身が成された御業を告白する賛美と共に、罪の告白を聞いてくださり、その者たちを赦し、御自身の恵みと慈しみに満たしてくださいます。
告白されない罪は残る
けれども、神が赦すことができない罪があります。それは、どんな罪でしょうか。それは、告白されない罪です。
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(ヨハネ一、1・9)
私たちのすべての罪、不正は、主イエス・キリストの十字架によって贖われています。憐れみ深い神は、御子イエス・キリストの十字架で流された血潮によって、私たちの罪を洗い流してくださったのです。けれども、私たちが自分の罪を隠し、そのまま握っているならば、その罪は消えません。私たちの心には闇が残ったままです。
私たちの日々において自分は悪くないと思い、家庭において、職場において、様々な人間関係において、過ちを認めず、自分を正当化し、相手を傷つけてしまうことがないでしょうか。
神は、憐れみ深い赦す神ですが、私たちがその罪、過ち、自分の落ち度を認め、それを告白しないならば、その罪は残るのです。しかし、心の内を包み隠さず、神に告白するならば、神は、その告白を喜んで受け取り、その人を赦し、罪の奴隷から解放してくださるのです。
隠されている罪はありませんか。そのために、心が重く、曇っていないでしょうか。神は、憐れみ深い神、恵みに満ちたお方です。赦す神です。隠されているものがあるならば、主の前に告白しましょう。