どうして惜しまずにいられるだろうか(ヨナ書3章10節~4章11節)
2023年 3月 1日神が罪に満ちた都市ニネベの民が悔い改めたのをご覧になり、災いを下すことを思い直されたとき、ヨナは「非常に不愉快になり、怒って、主に訴えた。」(4・1~2)のです。一体どういうことでしょう。
ヨナは、ニネベの人たちに「あと40日でこの町は滅びる」と告げました。すると人々が悔い改め、それをご覧になった神は、災いを下すことを思い直されたのです。本来は、喜ぶべきでしょう。
しかし、彼はこう考えたのです。神の預言者は、語ったことが実現してこそ評価される。人の救いよりも、自分の評価、立場の方が大事だったのです。ヨナは「これでは預言者としてのメンツが丸つぶれだ」と怒りをあらわにしたのです。
ヨナ自身、最初、ニネベに行くことを拒み、別の行き先の船に乗ると、自分のせいで嵐が起こり、そのことを悟ると、他の者に自分を海に投げ込ませ、海底へと沈んでいったのです。しかし、神が備えた大きな魚に呑み込まれ、その腹の中で、主の前に悔い改めの祈りをささげ、憐れみと恵みに富む神によって、苦難の中から引き上げられ、もう一度預言者としての使命を与えられニネベに向かったはずでした。
この場に及んでも、ヨナの心の王座には、主なる神御自身ではなく、彼自身が君臨していたのです。ヨナの心はまだ完全には神に明け渡されていなかったのです。砕かれなければならない自分へのこだわりが残っていたのです。
そんなヨナに対して主はこう言われたのです。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」(4)
この後ヨナは、神に即答せず都を出て行ったのです。かつて、主の御顔を避けていったときのようです。そしてヨナは小屋を作り、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとしたのです。
神が備えたとうごまに覆われ、一時的にヨナの不満は消えたのですが、一匹の虫にかませたので、とうごまが枯れ、熱風、日照りにすっかり弱り、死を願ったのです。
神はヨナにこう言われました。「『あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。』ヨナは言った。『もちろんです。怒りのあまり死にそうです。』」(9)
そこで主はこう言われたのです。「あなたは自分で労することも育てることもせず、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」(10~11)
神は、「とうごま」「一匹の虫」「東風」を用いてヨナにニネベの人々を惜しまずにいられない御自身のお心を伝えようとされたのです。
私たちにも「一夜にして生じ、一夜にして滅びるとうごま」を惜しむ心がないでしょうか。私たちにとっての「とうごま」は何でしょうか。いつかは消えてなくなるものなのに、こだわっているもの、執着しているものがないでしょうか。
そのために、憐れみ深い神の心、キリストの心を心とできず、自分の思い、自分の利益を優先してしまうことがないでしょうか。
神は、独り子なるイエス様を与えてくださるほどにこの世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るためです。
この世とは、罪人の世です。自分中心に生き、「とうごま」を惜しみ、滅びに向かっている人々の世です。主は、そんな世に住む愚かな罪人が滅びることを望みません。神は、その人たちを惜しまずにはいられないのです。私たちがイエス様を信じて永遠の命を得るとは、私たちの心から自分勝手な思い、わがままな思いが取り去られ、神の心、キリストの心を心とする者に造り変えられることです。そのためにイエス様は来られ、その尊い血潮を流され、命をささげてくださったのです。神は、惜しまずにはいられない神です。