キリストの愛に生きる者の切なる願い(Ⅰテサロニケ2・17~20、3・10)
2023年 8月 1日切なる願い:顔を見たい
「きょうだいたち、私たちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心ではなく、体だけですが――、なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。」(2・17)
パウロは、テサロニケを再び訪問して直接会い顔を見たいと切に願ったのです。「引き離される」とありますが、聖書の原文の言葉では「孤児になった」という意味です。孤児とは、両親を失った子どものことを言います。パウロは、キリストにあって生まれたばかりのテサロニケの信徒たちにとって父親や母親のようであり、霊的な親なのです。なのに、パウロに会えないテサロニケの信徒たちが孤児のようなのではなく、パウロ自身が孤児だと言っているのです。
キリストの愛に生きる者は、心が通じ合っていれば直接会えなくても構わないとは思わないのです。教会と日本語で訳された元の言葉はエクレシアです。それは「呼び出された者」という意味ですが、特定の場所に集まる者という意味もあります。私たちは主を礼拝するためにここに集まりますが、同時に、その心には、愛する兄弟姉妹の顔が見たくて教会に来る。それもまた教会の姿なのです。
切なる願い:信仰の足りないところを補い合う
「私たちは、あなたがたの顔を見たい、また、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」(3・10)
教会はキリストの体であり、私達それぞれは、その部分です。皆がお互いの足りないところを補い合ってキリストの愛が満ちていくのが教会です。パウロはまだ誕生して間もないテサロニケの信徒たちの足りない部分を分かっていました。だから自分の全身全霊を持ってそれを補いたかったのです。これもまたキリストの愛に生きる者の切なる願いです。
主御自身の願い
主イエスは、天の父なる神の御許を離れてこの世に来られました。この地上にある間も主イエスの心は、父なる神とひと時も離れることはありませんでした。しかし、十字架で私たちの罪を担われたとき、その罪の重荷に耐えながら、一瞬、父なる神との断絶を覚えつつ、その命をささげてくださいました。それは愛の神から引き離され、お互い同士も引き離され、孤児のようになってしまった私たちを愛によって再び結び合わせるためでした。それが主御自身の切なる願いなのです。