主イエスが私たちと一つとなる時 (ルカによる福音書24章28~35節)
2021年 10月 1日
御言葉によって主イエスが明らかにされる時
クレオパともう一人の弟子は、主イエスが復活されたという知らせを聞きつつも、半信半疑のままエルサレムから少し離れたエマオへと向かっていました。そこに主イエスの方から近寄って来られ、彼らの話に耳を傾けられたのです。
彼らは、その人がイエス様であることは分からないまま、エルサレムで起こった出来事について話し始めます。すると主イエスは「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(26)と言われ、聖書全体から、御自分について書かれていることを解き明かされたのです。
クレオパたちは、先に行こうとするイエス様を引き止め、一緒に泊まるように願うのです。「無理に引き止めた」(29)とあります。解き明かされた聖書の言葉によって、彼らの心が燃やされもっと聞きたかったのです。主イエスは、今も変わることなく御言葉を通して語り掛けてくださいます。御言葉が主イエスを証しする言葉であると信じるとき、私たちの心が燃やされます。そして、それは、主イエスが私たちと一つとなる時です。
聖餐を通して、主御自身が与えられる時
クレオパたちが引き止めたので、イエス様は、一緒に家に入られました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿が見えなくなった。」(30~31)
どうしてこの時、クレオパたちは、その人がイエス様であることが分かったのでしょうか。31節に「二人の目が開け」とあります。このところは受け身で書かれているので「二人の目が開かれた」と訳すことができます。誰が彼らの目を開いたのでしょう。イエス様ご自身です。イエス様がパンを祝福されたとき、そのパンは、霊的には主イエスご自身の体そのものです。つまりイエス様の体が裂かれ、二人に分け与えられました。そのとき彼らの目が開かれたのです。つまり主イエスが御自身を分け与えたとき、イエス様の愛の霊が彼らに分け与えられ、彼らの目が開かれたので、イエス様だと分かったのです。主イエスが私たちと一つとなるとき、それは、聖餐を通して主イエスが御自身を分け与えられる時です。
ところが彼らがイエス様だと分かったとき、「その姿は見えなく」(31)なりました。なぜでしょうか。
ヘンリ・ナウエン師は次のように述べています。「イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるという二つのことは、実は同じ一つの出来事です。なぜでしょうか。それは、キリストである彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられることと、そして、それゆえに自分たちがキリストを運ぶものとなったのだということが、弟子たちに分かったからです。……イエス様は、もはや、話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルに座っているのではありません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。」
私たちが主の食卓、聖餐にあずかるとき、つまりキリストの体、そして、キリストの血にあずかるとき、主イエスが目に見える形での旅の道連れではなく、私たちの魂の同伴者となられ、私たちと一つとなってくださったことを感謝する時です。「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2・19~20)と使徒パウロは述べていますが、私たちの内に生きておられる主が私たちと一つとなってくださるのです。