バイブルメッセージ Bible Message

心の貧しい人々は幸いである 

2024年 8月 1日

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

(マタイ5・3)

 心の貧しい人々とは如何なる人のことでしょうか。以前、新共同訳聖書が、新約聖書版を出版したときの聖書訳では「心の貧しい人々」の所が「神に依り頼む人」となっていました。心の貧しい人々とは、自分の内に誇るものが何もない、ただ神に頼り望みを置く人のことです。

 そして心の貧しい人々は、へりくだった謙遜な人で、自分の才能、家柄、学歴、財産といったことで自分を誇ることはありません。使徒パウロは、かつて律法学者、ファリサイ派の人として、自分こそが神の前に正しいと、自分の正しさを主張する人でした。誇ろうと思えば、誇れることが沢山ありました。けれども、主イエス・キリストに出会い、キリストと共にある恵みのあまりの豊かさ、素晴らしさを知って、自分がそれまで誇っていたものは、ちり芥だ、屑だと告白しました。パウロも、キリストに出会い、救われ、心の貧しい者となったのです。

 心の貧しい人は、自分の無力さ、足りなさを知っている人ですが、自己卑下する人ではありません。神様に愛され祝福されている自分に満足している人です。

 

 天の国はその人たちのもの

 そして主イエスは、「天の国はその人たちのものである」と言われたのです。なぜならば「神に祝福された心の貧しい人々」とは、何よりもまず、主イエス・キリストの救いにあずかり、神の子とされた者たちです。

 私たちは、どのように主イエスに救われ神の子とされるのでしょうか。教会の礼拝に来ているからですか、たくさん聖書の御言葉を読んだからですか。神に祈ったから、良い行いを積み重ねたからですか。神様はその人たちを喜ばれます。しかし、だから、あなたを救い神の子としてくださるのではありません。救われ神の子とされるために、如何なる功績、実績も必要ありません。ただ神様の一方的な恵みによって、主イエスを信じる信仰によって救われたのです。祈り、御言葉は、救いに導く恵みの手段ですが、祈りと御言葉が私たちを救うのではなく、神ご自身が、主イエス様の十字架と復活の贖いの恵みによって、聖霊様のとりなしによって信じる信仰へと導かれ、私たちは救われ神の子とされるのです。

 マタイは天の国という言葉を良く用いますが、それは神の国、神様の御支配のあるところです。心の貧しい人とは、神に依り頼む、へりくだった人、謙遜な人で、その人の内には神の国、神様の御支配があるのです。その人の心には、神様以外のものに頼る思いがなく、自分を誇る思いが消え去るので、天の国、神の国は、その人のものなのです。

 ですから「心の貧しい人」は、砕かれた心の人です。自己中心な思い、目に見える何かに依存する思いが粉々にされた心、傲慢、高ぶりの心が打ち砕かれた人です。「私は高く、聖なる所に住み、打ち砕かれた人、低められた人と共にいて 低められた人の霊を生き返らせ 打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」(イザヤ57・15)

 心の貧しい人とは、神の聖なる愛で、満たしていただかなければ、愛に乏しく、愛が足りない者であることを悟り、自分のかたくなな心を砕いていただき、神の御愛が染みわたらなければ、どうしようもないことを気づき、「主よ、私の心を砕いてください」と自分を差し出す人です。

 また高ぶる心だけではなく、自分はダメだと卑下してしまう心も主の前に砕かれる必要があります。主は「私はあなたを祝福している。私は私の目に貴く、高価で尊い存在だ。私の者だ。だから、もっと私を信頼し、より頼んでほしい。あなたの砕かれた心こそが、私にとっての最高のささげものだ。私は、その心を私の愛の王国とする。」そう言っておられるのです。

 主イエスの御体は十字架で砕かれ、主は尊い血潮を流され、私たちの罪を贖い、罪を赦し、イエス様を信じる者を神の子としてくださったのです。それは、私たちの心が砕かれ、神の聖なる愛が染みわたり、神の国、神の御支配が私たちのものとなるためです。

 心の貧しい人々は、神に依り頼む人、へりくだった人、心打ちかれた人、そして、その人は、神に祝福された人で、天の国、神の国は、その人たちのものです。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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