瓦礫の山はおびたたしい(ネヘミヤ3章33節〜4章~8節)
2022年 8月 1日ネヘミヤ、そしてユダヤの民の上に、神の恵み深い手が置かれ、城壁の再建は順調に進むかに思われました。しかし、「サンバラトは、私たちが城壁を再建しているということを聞いて怒り、激しく憤ってユダヤ人を嘲った。」(3・33)憤った人たちは、他にもいました。「サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドド人は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、非常に怒った。彼らは皆で共謀し、エルサレムに攻め入り、私たちを混乱させようとした。」(4・1)
この人たちは普段は相争うお互い同士ですが、ユダヤ人に敵意を向けることにおいては、一つとなっていました。神様の恵みを嫌い、憤る人たちは、闇と罪を好む人たちですが、その人たちは、光に照らされたくないので、光に照らされている人々を見ると、それを邪魔し、妨害し、そして嘲るために徒党を組むのです。
ネヘミヤは、その嘲りに対して、罵り返すことなく、神に心を向け、外側からの攻撃に対して、「神に祈り、昼も夜も彼らに対して見張りを立て」(4・3)て対抗したのです。
ところが、この時また新たな問題が起こりました。それは、一つとなって城壁と門の再建にあたっていた同胞のユダヤ人が、過酷な再建工事の中で、燃え尽きそうになっていたのです。「しかし、ユダは言った。『荷役の力は衰え、瓦礫の山はおびただしい。城壁を再建するなど、私たちには不可能だ。』」(4・4)
私たちの信仰の歩みは、時におびただしい瓦礫の山を崩し、信仰という城壁の破れを修復し続ける日々でもあります。そして掘り起こしても瓦礫がなくならず、城壁の修復が進まないように思えることがあります。しかし、信仰という城壁を立て直すためには、堅固な土台を掘り起こす必要があるのです。堅固な土台、それは主イエス・キリストです。主イエスという土台を見えなくするおびただしい瓦礫の山は取り去る必要があります。
ネヘミヤは、弱り果てていた民の「様子を見て、立ち上がり、貴族、役人、および残りの民に言った。『彼らを恐れるな。大いなる畏るべき主を思い起こし、あなたがたの仲間のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。』」(4・8)と。
このネヘミヤの言葉を新約の光に照らすならば、私たちの信仰の破れの原因となる瓦礫を取り去り、主イエスという土台の上にしっかりと立つために主の十字架と復活の御業を思い起すことです。そして、主イエス・キリストという土台は、自分の家族、仲間の土台ともなっていくのです。そのために、私たちは、信仰の盾を手に取り、霊の剣である御言葉を握って悪に勝利する者でありたいと思います。