私たちが光の中を歩むなら (ヨハネの手紙一、1・5~10)
2024年 2月 1日「……神は光であり、神には闇が全くないということです。……しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(5、7)
光である神は、同時に光の中にあるとヨハネは述べています。それは、父子聖霊なる三位一体の神は、聖なる愛の交わりの内に存在し、聖なる愛の光を放ち合っているので、神は光であり、また光の中にあるのです。
「光の中を歩むなら」とありますが、私たちが光の中を歩もうとするならば、それなりの覚悟が必要です。なぜなら神には闇が全くないからです。神の光に照らされて歩む、歩もうとするなら、自分の弱さ、欠点、間違い、罪、汚れがすべて明らかにされるからです。つまり、自分がさらけ出されるのです。
私は神と交わりを持っていると言いながら、光である神に照らされることを拒み自分を隠そうとするならば、その人は今だに闇の中にあるのです。偽り者、嘘つきで、真理を行っていないのです。アダムとエバが神の言葉を疑い、蛇を通して誘惑してきた悪魔の言葉に耳を傾け、罪を犯したとき、その後、彼らがしたことは何だったでしょうか。それは、身を覆い隠すことと御顔を避けることでした。「そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。」(創世記3・8)
神が光であり闇が全くないというのは、神の聖さ、ホーリネスを現わしています。罪に汚れてしまったアダムとエバにとって、神の聖なる光は、心地よいものではなく、避けるしかなかったのです。
また罪があるのに罪がない振りをするならば、主の御顔の光を避けている状態で、闇の中にとどまり続けることになります。だから「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内に」ないのです。(8) しかし、光に照らされ、罪、汚れを認める人には、そこから抜け出す道があります。「……神が、光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(7)御子イエスが十字架で流された尊い血潮によって、私たちは罪赦され、清められるのです。主はその命をささげられるという大いなる犠牲を払うほどに私たちを愛し、ご自身との交わりへと招いておられるのです。
そして、ここでヨハネは「互いに交わりを持ち」と言っています。これは、私たち同士の交わりです。神の光の中を歩もうとするならば、お互いが、その弱さ、罪を隠さず、告白し合う者となるということです。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(9)
神の聖なる愛の光の中を歩むならば、私たちの内に潜む闇が照らされます。私たちがその闇を認め、罪を告白し合い、主イエスの血潮によって、清められ、聖なる愛の光を放ち、闇の中にある人々を光である神に導き、もっと多くの方とこの聖なる愛の交わりを持つものとならせていただきましょう。