私を引き上げてくださる主(ヨナ書2章1~11節)
2023年 2月 1日苦難の中にある者の信仰の叫びに応えてくださる主
海に投げ込まれたヨナは、大きな魚に呑み込まれ、お腹の中で、神に祈るのです。「苦難の中から私が主に呼びかけると 主は答えてくださった。陰府の底から主に叫ぶと 私の声を聞いてくださった。」(2・3)
ヨナは、主の言葉に従わず、「主の御顔を避け」(1・3)、ニネベとは反対方向に向かう船に乗り込み、その船の奥底に身を隠し、海に放り出され、遂に陰府の底までくだっていきました。ヨナは、「私は思った。私はあなたの前から追い出された。生きて再びあなたの聖なる宮を 目にすることがあるだろうか。」(2・5)と祈っていますが、自分がもう主の聖なる宮、主の臨在の中に招き入れられることはないかもしれない。そう思ったのです。しかし、陰府の底で、ヨナは主に呼びかけ、叫ぶことを忘れませんでした。そして、主なる神はその叫びに答えてくださいました。
「命が衰えようとするとき 私は主を思い起こした。私の祈りはあなたに届き あなたの聖なる宮に達した。」(2・8)もうだめだ、終わりだと思える状況の中で、ヨナは「主を思い起こしました。」絶対絶命のピンチで何を思い起こすかはとても重要です。自分が犯した過ちを思い起こして後悔するのでしょうか。それとも悔い改めるのでしょうか。後悔は自分の心を責め、自分に絶望するのですが、悔い改めは、向きを変える、すなわち、主なる神に心を向けることです。ヨナは、後悔ではなく、悔い改めたのです。それが主を思い起こすということです。
また新共同訳聖書では、「主を思い起こした」の箇所は「主の御名を唱えた」と訳されています。
主の御名、それは、主御自身であり、主の臨在です。ですから、ヨナが主の御名を唱えたのは、「陰府の底」とヨナが思ったところにも主は御手を伸ばしてくださるという信仰の叫びであったとも言えるでしょう。
私たちももうだめだと何かを諦めそうになるとき、後悔ではなく悔い改めて、今自分がある所に主が届いてくださると信じる信仰の叫びを上げましょう。主は愛の御手を必ず伸ばしてくださいます。
私を引き上げてくださる主
「しかし、わが神、主よ あなたは命を 滅びの穴から引き上げてくださった。」(2・7)
ヨナがこれ以上、くだることのできないどん底にあったとき、主は巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませました。ヨナは滅びの穴から引き上げられました。そして、主なる神が再び魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出したのです。
ヨナは、奈落の底で主の名を呼びました。主を思い起しました。主の御名を唱えました。主はそこに届いてくださり、彼を引き上げられました。
あなたは日々、主の御顔、すなわち主の臨在を慕い求めて歩んでいますか。もしかして、御言葉を聞いていても、それはできない。それはいやだと御顔を避け、主の臨在を失いそうになっていないでしょうか。そして、苦難の中でもがいていないでしょうか。私たちが今どのような状況にあっても、主を思い起こし、主の御名を呼び求めるならば、主は、私たちの今いるところまでくだって来て、引き上げてくださるお方です。主の御手が届かないところはありません。なぜなら、私たちの神は「自分を無にして僕の形をとり……へりくだって……十字架の死に至るまで従順な」主イエスだからです。信じて進んで参りましょう。