立ちはだかる壁を崩すため(ヨシュア記6章1~5節)
2022年 7月 1日エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民の叫びを聞かれた神は、モーセを指導者として立て、彼らを解放しました。荒れ野に出た彼らは、神が約束された地カナンを目指しますが、不信仰、不従順を繰り返す中、距離的には数か月でたどり着ける約束の地に足を踏み入れるまで実に40年間も荒れ野をさ迷いました。遂にヨルダン川を渡り、約束の地に入り、そして、エリコの町に到着します。ところが、そこに大きな城壁が立ちはだかっていました。
信仰生活において、様々な荒れ野を通り、ようやく主の安息に憩うことができると思ったとき、これまで経験したことのない大きな壁が立ちはだかり、前に進めなくなることがあります。
主イエスは、私たちが神の恵みをもっと豊かに体験するために、あえて大きな壁を私たちの目の前に用意することがあります。その一方で、立ちはだかっているように思える大きな壁を生み出しているのは私たち自身の場合もあります。何かの問題を人のせい、周りのせいにする時、壁ができるのです。崩されるべきエリコの壁は、私自身であったりするのです。
イエス様を信じ救われ、これまで自分を縛っていたものから解放されたはずなのに、相変わらず握って手放さないもの、それらも壁となりうるのです。私たちの心にも、エリコという城壁があり、崩れていないので、内におられる聖霊様との親密な交わりを妨げてしまうのです。
どうすれば壁は崩れるのか
主なる神がヨシュアに命じたことは、毎日、エリコの町の城壁の周りを六日間は一周し、七日目は七周することでした。七人の祭司たちが七本の雄羊の角笛を持って進み、神の戒めの言葉、十戒の入った契約の箱を担ぐ人が行進しました。契約の箱を通して、神の臨在がありました。そこに主が共におられました。
彼らは六日間、毎日一周しました。その結果、何が起こったでしょうか。何も起こりませんでした。エリコの城壁が崩れるような兆候は全くなく、壁に一つの亀裂も入りませんでした。そして七日目、一周、二周、三周、四周、五周、六周、十二周エリコの城壁の回っても崩れる兆候は全くありません。
しかし、七日目の七周目のとき、ヨシュアの命令と共に、角笛が吹き鳴らされ、大声があげられると、その瞬間エリコの城壁が崩れたのです。そして彼らはエリコの中に突入することができました。
私たちが御言葉の約束を信じ歩み続けるとき、何の変化も兆候もないとき、主はいつ成し遂げてくださるのかと不安になり、御言葉の約束を疑い初め、また自分でどうにかしようともがき始めることがないでしょうか。
ヨシュア率いるイスラエルの兵士たちは、御言葉の約束を聞いたら、その後、黙ってその御言葉を実践しました。何も起こらなくても、起こる兆候がなくても、「おかしいぞ、変だぞ、何も起こらないではないか」と懐疑心を抱かず御言葉を実践しました。彼らは、声を出しませんでしたが、エリコの城壁を周りながら、目には見えなくても共におられる万軍の主を信頼し祈りながら、一周一周、周り続けたのです。
主御自身が壁を崩される
七日目は七周しました。七は完全数ですから、単なる日数や回数ではありません。彼らは最後まで完全に神の言葉に聞き従いました。祭司たちが角笛を鳴らし、大声が響き渡ったとき、エリコの城壁は崩れました。
誤解してはならないのは、城壁が崩れたのは、彼らが大声を出したからでも、角笛の音に特別な力があったからでもありません。
テサロニケの信徒への手紙一4章16節前半に「すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」とあります。ここには、再び主イエスが来られる時、主の再臨の時の様子が記されていますが、大天使の声と、神のラッパが鳴り響く中で、主イエス御自身が来られました。
エリコの城壁が崩れたときの大声と祭司の角笛は主の再臨の時の、天使の声と神のラッパのように響き、そのときイエス様がそこに豊かに臨まれ、エリコの城壁は、主御自身によって崩されたのです。
主イエスは、やがて来られます。そのとき、この世にあるすべてのエリコの城壁が崩れ落ちるのです。その時を待ち望みつつも、主イエスは、私たちの外側に、また内側にある壁を、御心に適った時に崩し、神様の愛の御支配を広げておられるのです。
私たちの目の前に立ちはだかるエリコの壁、そして、私たちの内にあって主との親しい交わりを妨げるエリコの壁を崩してくださいと祈りましょう。主の約束を信じ続け、更に歩ませていただきましょう。