私たちを神の子と呼ぶほどの神の愛(ヨハネの手紙一、3・1~6)
2024年 4月 1日「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。」(1)
父なる神は、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を私たちにお与えくださったのでしょうか。
まず、神の子と呼ばれる、この「呼ばれる」という言葉に注目したいと思います。呼ばれるとは、招かれるという意味があります。神は私たちを神の子となるように招いておられます。
そして、もう一つ「値を付けられる」という意味があります。建物や土地が競売にかけられることがあります。最高額で入札した人がその土地、建物を購入する権利を得ます。父なる神が、私たちを神の子として、値を付けるとき、どれほどの価で入札してくださるのか。私たちをあえて建物にたとえるならば、かなり欠陥だらけで、地震がきたら倒壊するかもしれない。本当は値がつかない。入札する価値がないような存在に思えるかもしれません。
ヨハネは、福音書の中でイエスの言葉をこう記しました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
父なる神様は、わたしたちを神の子と呼ぶために、「御子イエスの命」と書いて入札してくださったのです。これほどの愛が私たちに与えられているのです。人が命を失い永遠の滅びに向かわないために、神ご自身が犠牲になってくださった。これほどの愛を与えてくださり、私たちを神の子と呼んでくださるのです。
私たちの過去に、いかなる傷があっても、痛みがあっても、また失敗があっても、神の愛が届かないところはありません。私たちは神の子と呼ばれるほどに価値ある存在です。そして私たちは、事実、神の子であり、既に神の子なのです。
そして、今一つ申し上げたいことは、私たちが既に神の子であるということは、神に似た者となるということです。
「愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。」(2)
私たちの地上での日々は、主が再臨される日、あるいは、私たちが召されて天に上げられるのが先かもしれませんが、主をありのまま見る日に備えての歩みであることを忘れてはなりません。ですから、「神にこの望みを抱く人は皆、御子が清いように自分を清くするのです。」(3)
私たちは、既に神の子であるならば、神に似た者となるという望みを抱く者として歩み、自分を清くするのです。それは、その内ではなく、今です。
どうすれば、私たちは、自分を清くし、キリストの似姿に変えられるのでしょうか。それは、キリストを知れば知るほど、キリストの似姿に変えられます。また、苦しい時、辛いとき、そしてどんなときも、聖書の言葉に食らいつくなら、イエス様は御言葉を通して出会ってくださいます。そして、そこで、イエス様の愛をもっと深く知ることができ、御子イエスの似姿に変えられ続けるのです。