「わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)
2016年2月1日「なぜ」を担われたキリスト
信仰生活の中で、「なぜ、どうして」という問いかけをせざるを得ないことがあります。ある人は、事業失敗し、財産を失い、またある人は、愛する家族を不慮の事故や病気で突然失うことがあります。
先日、敬愛する八木沼直美姉が45才という若さで、突然お召されになりました。ご両親のお心にある「なぜ、どうして」をどう受け止めればよいか分からなくなります。
わたしたちはただ、その「なぜ、どうして」を唯一受け止めてくださることができる主イエス様におゆだねするほかありません。イエス様は、神でありながらも、人となり、わたしたちの罪、病、悲しみ、痛みをすべてになって十字架にかかれ、罪の犠牲となってくださいました。全く罪、汚れのない方が、わたしたち罪人の一人に数えられ、私たちの側に立ってくださいました。そして、十字架の苦しみの中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのか」と叫ばれ、わたしたちが、この世で遭遇するすべての「なぜ」をイエス様が十字架で担ってくださったのです。
「なぜ」をゆだねられたキリスト
そして、主イエス様は、この後、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、十字架上で息を引き取られました。新聖歌252「やすけさは川のごとく」の作詞者スパフォード氏は、敬虔なクリスチャンとして歩んでいましたが、ある日、シカゴ大火災で多くの財産を失います。その後、イギリスへの慰安家族旅行を計画しますが、急用ができて、家族だけ先に船で出発するのですが、なんとその船が難破し、妻は救助されますが、子どもたちを失います。
この悲しみ、痛みの中でも、彼は、十字架の主を仰ぎつつ、イエス様を死者の中から復活させ、死は死で終わりではないことを宣言された父なる神に全身全霊を委ねていきました。そのときに作詞されたのが、この新聖歌252です。
八木沼直美姉は、17歳で信仰の歩みをスタートさせましたが、様々な紆余曲折の中で、キリストの体なる教会と距離を置くようになられました。ですから、ご両親も、教会のこと、信仰のことを直美さんと離せない状況が続いていました。
緊急手術直後、お父様の信一さんが直美さんのためにお祈りされると、そのことをあまり喜ばないような態度を示されていました。おそらく、直美さん自身が、突然自分の身に起こっていることを受け入れることができなかったのだと思います。「なぜ、わたしが」そのような思いだったでしょう。
しかし、ご両親が献身的に直美さんに仕えていかれる中、その心は、キリストの平安で満たされていきました。信一さんふが「イエス様を信じるだけで天国に行けるから」と言われると、その言葉にちゃんとうなずかれました。それは、直美姉が、ご自分を主の御手にゆだねることができたからだと思います。